ゆかりの地・観光情報

岐阜城周辺・岐阜市エリア

大河ドラマ館周辺の岐阜城(稲葉山城)や鷺山城など、織田信長公・斎藤道三公・土岐頼芸公などにゆかりのある地や観光情報を紹介します。

岐阜城(稲葉山城)

岐阜県岐阜市金華山天守閣18 金華山山頂

建仁年間(1201年~1204年)、鎌倉幕府執事の二階堂行政が最初にこの場所に砦を築いたとされる。
天文8年(1539年)に斎藤道三が稲葉山城に拠点を置き、永禄10年(1567年)には道三の孫である龍興を倒した織田信長が城を手に入れ、この地方一帯を平定。城を岐阜城へと改名し、天下統一の拠点とした。
しかし、慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前哨戦で落城した。
現在、金華山一帯は、「岐阜城跡」として国の史跡に指定されている。

岐阜城(稲葉山城)スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

金華山(稲葉山)

岐阜県岐阜市槻谷

岐阜市の中心部に位置し、標高は329m。かつては稲葉山と呼ばれ、山頂には岐阜城がそびえ立つ。
岐阜城最上階からの眺めは、かつて織田信長公も見晴らした壮大なスケール。
また、市の中心部にありながら、シイやシダ類の群生が茂り、60種類以上の鳥たちも生息。まさに自然の博物館さながら。
ロープウェー山頂駅前にはリス村もあり、愛らしくてかわいいたくさんのリスたちが待っている。

金華山(稲葉山)スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

織田信長公居館跡

岐阜県岐阜市大宮町1丁目

宣教師ルイス・フロイスが岐阜を訪れた際、「地上の楽園」と表現し、その壮麗さを記している。発掘調査では、信長時代の巨石列や石垣、金箔瓦のほか、いくつもの庭園が見つかっている。

織田信長公時代の石垣

岐阜県岐阜市金華山天守閣18 金華山山頂

金華山は全山がチャートという石材でできており、石垣にもこれが用いられている。天守南西部の通路横には、信長時代に造られたとみられる二段の石垣がよく残っており、往時の姿を伺うことができる。

斎藤道三公時代の石垣

岐阜県岐阜市大宮町1丁目

信長時代の館の下から見つかっている石垣で、石材が比較的小さく角度が急であることが特徴。火を受けて変色しており、信長の稲葉山城攻略の際に火災があったことを物語っている。

御手洗池

岐阜県岐阜市大宮町1丁目

かつては、この池の背後にあたる金華山丸山に伊奈波神社があったため、この池で手を洗って参拝した。慶長5年(1600年)、関ケ原の合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際、大勢の奥女中らがこの池に投身したといわれる。

丸山

岐阜県岐阜市大宮町1丁目

かつて、金華山(稲葉山)は伊奈波神社の社地であった。丸山にあった社殿は、天文8年(1539年)頃に道三が城を築いた際、現在の位置に移されたといわれている。

常在寺

岐阜県岐阜市梶川町9

開山は宝徳2年(1450年)、土岐家家臣の斎藤妙椿が京都妙覚寺から世尊院日範を招いて建立したとされる。斎藤家三代(道三、義龍、龍興)の菩堤寺。道三と息子の義龍の画像(国重要文化財)を所蔵している。

常在寺スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

七曲り登山道(大手道)

岐阜県岐阜市槻谷

斎藤道三が岐阜城に入城した際、金華山の西麓に居館を建て、百曲通と七曲通に城下町を作ったとされる。関ヶ原の合戦の前哨戦の際には、この登山道周辺で合戦があった。現在は、初心者、家族向けの登山コースとなっている。

めい想の小径(水手道)

岐阜県岐阜市槻谷

このコースはいくつかの水の流れる沢を横切るので、別名を水手道とも呼ばれる。北面の尾根から長良川、岐阜市北部の町並み、奥美濃から伊吹山も一望できる。

道三塚

岐阜県岐阜市長良福光2494

弘治2年(1556年)長良川の戦いで敗死した道三の遺体は、崇福寺の西南(現メモリアルセンター内)に埋葬された。しかし、塚はたびたび長良川の洪水に見舞われたため、天保8年(1837年)に常在寺の住職によって現在の場所に移された。

鷺山城跡

岐阜県岐阜市鷺山150

土岐頼芸の居城や道三の隠居城などと伝えられる。東麓には館があったと推定され、発掘調査で塀と土塁の痕跡が見つかっている。また、山裾には、土塁の一部が残存している地点もある。

鷺山城跡スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

川原町界隈

岐阜県岐阜市湊町・玉井町・元浜町

川湊の近くに発展した集落。道三や信長は、物流の中心となる長良川に着目して町を整備した。独特の白木の格子が続く美しい町並みがみどころで、グルメ、ショッピング、着物レンタル、ものづくり体験などが満喫できる。

川原町界隈スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

善光寺

岐阜県岐阜市伊奈波通1丁目8

武田信玄が信州の善光寺から甲府に移した善光寺如来を、岐阜城主となった信長が岐阜に一時移設したといわれている。永禄10年(1567年)、信長に会いに来た京都の公家・山科言継は、岐阜滞在中、善光寺如来を参拝している。

善光寺スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

崇福寺

岐阜県岐阜市長良福光2403-1

信長が岐阜に入城した際、菩堤所として保護した寺。本能寺の変で信長・信忠父子が光秀に討たれると、信長の側室お鍋の方がその遺品を送り寺内に埋め、位牌を安置させた。現在、信長・信忠父子の廟所が本堂裏にある。

崇福寺スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

円徳寺

岐阜県岐阜市神田町6丁目24

織田家ゆかりのお寺で、人や車の往来の激しい岐阜市の繁華街、長良橋通り(神田町通り)に面している。
開基年代は不明だが、永禄7年(1564年)に織田信長から寄進されたといわれる鐘や「楽市楽座」の制札など貴重な文化財が寺宝として残されている。織田塚から改葬したと伝わる史跡「伝織田塚改葬地」や関ケ原の戦いの前哨戦で岐阜城が落城し、信長の孫・信秀が謹慎14名に守られてこの寺に難を逃れ、剃髪をしたという逸話も残されている。

円徳寺スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

織田塚

岐阜県岐阜市霞町18

霞町にあり、信長公の父・信秀が斎藤道三公と戦い、織田軍が大敗した時の戦死者を葬ったと伝承される。また、織田塚の南西約200mに位置する円徳寺には「伝織田塚改葬地」が所在する。寺伝によれば、安永5年(1776年)に改葬されたと伝わる。

織田塚スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

橿森神社

岐阜県岐阜市若宮町1-8

上加納山(水道山)の麓にあり、第12代景行天皇の時代に建設された。岐阜市内中心地にあり、境内は粕森公園として親しまれている。また、楽市楽座の市神は榎であり、御園の榎と云われた。

橿森神社スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

加納城跡

岐阜県岐阜市加納丸之内7

旧加納城は、文安2年(1445年)に土岐氏の守護代であった斎藤利永が最初に築いた。
現在も長い石垣がそのまま残る加納城の城跡は、関ケ原の戦いの後、徳川家康が本多忠勝を総奉公として、東山や北陸地方の大名に命じ再建させた時のものである。

加納城跡スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

立政寺

岐阜県岐阜市西荘3丁目7-11

文和2年(1353年)に智通上人により創建された浄土宗のお寺で、美濃など東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えた。明智光秀と細川藤孝の仲介により、織田信長が戦国最後の将軍となった足利義昭を迎えた。

立政寺スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

濃姫遺髪塚

岐阜県岐阜市不動町

濃姫は、斎藤道三と可児明智城主(現在の可児市)明智三継の娘で才色兼備と言われた小見の方(おみのかた・道三の正室)との間に生まれた。濃姫が信長と結婚後、どのような生活を送ったかは、資料が少ないためほとんどわかっていないが、岐阜市不動町に「濃姫遺髪塚」といわれるものが残っている。

伊奈波神社

岐阜県岐阜市伊奈波通1丁目1

景行天皇の14年に創建されたといわれる歴史ある古社。4月の第1土曜日には岐阜まつりが行われ、岐阜市内を練り歩いた山車や神輿が次々に集まってくる。斎藤道三が岐阜公園の丸山から現在の地に移転したと伝えられている。

伊奈波神社スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

ぎふ長良川の鵜飼

岐阜県岐阜市湊町1-2

長良川の鵜飼は古典漁法を今に伝える岐阜市の夏の風物詩。その歴史は古く、1300年以上前にまでさかのぼることができ、織田信長や徳川家康など時の権力者たちの保護を受けていた。鵜飼を「見せる(=魅せる)」ことでおもてなしの手法として最初に取り入れたのが、織田信長である。

ぎふ長良川の鵜飼スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

鵜飼の里

岐阜県岐阜市長良川右岸

長良川の鵜飼に、より親しんでもらえるのが「鵜飼の里」。長良川右岸から一歩入ったところには鵜匠たちの家が並び、鳥家で20羽程度の鵜の世話をし、ともに暮らしている。鵜飼のあれこれを直接聞いたり、間近で鵜を見ることができる。

鵜飼の里スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

妙照寺

岐阜県岐阜市梶川町14

梶川町にあり、創建は天文3年(1534年)で、本堂は寛文2年(1662年)に建てられた。慶長5年(1600年)、当時の岐阜城主の織田秀信から、竹中半兵衛(豊臣秀吉の家臣)の屋敷跡を寄進され、現在の位置に移った。貞享5年(1688年)、当時この寺の僧で後に住職となる己百に招かれた松尾芭蕉は約1ヶ月間に亘り滞在した。その座敷は現存し、松尾芭蕉の挨拶句「やどりせむあかざの杖になる日まで」の句碑も境内にある。

妙照寺スポット情報(岐阜観光コンベンション協会)

御薗の榎

岐阜県岐阜市若宮町1丁目4

十六世紀前半、上加納村には楽市場が存在したが、織田信長は、制札を与え商工業者の保護・育成策を打ち出し(楽市楽座)、その権利を認めた。この榎は、楽市場(上加納村御園)に市神として、あったものである。榎は、嘉永5年(1852年)に枯れ木となり植えなおされ、明治初年の道路改修工事に際して、橿森神社大門へ移植された。

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