ゆかりの人物

明智氏

明智光秀(本徳寺蔵)/写真協力 岸和田市観光課

明智あけち光秀みつひで

光秀公は、1582年(享禄元年)に美濃国(現在の岐阜県)で生まれたといわれる戦国武将です。
斎藤道三公に見出され家臣となり、織田信長公が天下取りを進める課程に、将軍・足利義昭公との間を取り持つなど多くの功績や貢献により信長公から厚い信頼を得て重臣となります。しかし、1582年(天正10年)に主君である信長公に反旗を翻し「本能寺の変」を起こし、羽柴秀吉公との「山崎の戦い」に敗れ謀反は失敗。「謀反人」や「三日天下」という後世の評価は、あまりにも有名です。
ですが、その実像は坂本城や亀山城、福知山城を築くなど築城手腕に優れ、丹波平定など軍略家としても活躍をする智将であったといわれています。また、関ケ原の合戦(1600年・慶長5年)の時まで生きていたとも伝わるなど、多くの謎につつまれています。
岐阜県山県市内には、光秀公の出生や晩年に関する伝承が多く残っています。

明智光秀の略年表

西暦 元号 年齢 出来事
1528年 大永8年/享禄元年 1 美濃国(現在の岐阜県南部)に明智氏の子として生まれる
空白期間
1556年 弘治2年 29 斎藤道三が斎藤義龍と争った長良川合戦で道三方につく
道三が敗北すると、明智城も攻め落とされ一家は離散
越前へ逃れ浪人となる
仕官先を探し諸国放浪
その間に鉄砲術や和歌を学び、足利幕府の要人・細川藤孝と知り合う
その後、越前国(現在の福井県)の朝倉義景に仕える
1568年 永禄11年 41 足利義昭の足軽衆として臣従
信長と将軍義昭との間を仲介
義昭が越前一乗谷から美濃岐阜へ移った後、信長が義昭を奉じて上洛
1570年 永禄13年/元亀元年 43 近江・姉川合戦や志賀の陣で功を挙げ、京都警備を任ぜられる
1571年 元亀2年 44 織田信長に従い比叡山延暦寺攻めを行い、功績を挙げる
近江志賀郡を拝領し、初めての城造り、坂本城の築城を開始
義昭と主従関係を解消
1575年 天正3年 48 朝廷より「惟任これとう」性と官途「日向守」を賜る
丹波攻めを信長から命ぜられる
1576年 天正4年 49 妻・煕子が病死
丹波攻めの拠点・亀山城の築城を開始
1578年 天正6年 51 娘・玉(ガラシャ)、細川忠興に興入れ
1579年 天正7年 52 丹波と丹後の平定を完了させる
1580年 天正8年 53 丹波を拝領
1581年 天正9年 54 織田信長が京都で行った大規模な軍事パレード「京都馬揃え」をとりしきる
それまでの功績を認められ、序列3番目に並ぶ
武具の置場所から挨拶の仕方まで記した「家中軍法十八ヶ条」を制定
光秀父子が細川父子の招きで丹後の天橋立にて遊び、親睦を深める
妹(妻木某の妻)が没する
1582年 天正10年 55 本能寺の変を起こす
山崎合戦で敗死し、坂本城落城
  • ※岐阜県内の生誕地、父親の名前については諸説あります。
  • ※年号下の年齢は1528年(享禄元年)誕生説をとった場合の推定年齢です。明智光秀の生誕年月日には諸説あります。
  • ※敬称略

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